海外ツアーリスト
ドイツ・フランス うたごえ交流の旅


2006年5月5日(金)~12日(金)
大野幸則 斉藤隆 同行
総勢20名参加

 

●ドイツ最古の大学の町ハイデルベルグの学生酒場で、ドイツの人とうたごえ交流。

●ロマンチック街道の中心地ミューヘンの、ホーフブロイ・ハウスでのうたごえ交流。

●パリでは老舗のシャンソニエ「ラパン・アジル」で、本場のシャンソンを堪能。

●ミューヘン郊外にある、ナチスのダッハウ強制収容所跡を訪ねます。

●ほか、他のツアーでは味わえないともしびうたごえツアーの企画がいっぱい。

 

 
月 日 都 市 日 程(宿泊)
5月5日(金)

成田空港発

フランクフルト着

ハイデルベルグ着

空路、直行便又は乗り継ぎ便で、ドイツのフランクフルトへ

着後、陸路、古城街道の中心の町ハイデルベルグへ

(ハイデルベルグ泊)

 

5月6日(土) ハイデルベルグ

午前:ハイデルベルグ市内見学

    ハイデルベルグ城、マルクト広場、学生牢

午後:自由行動

夜:学生酒場でうたごえ交流の夕べ

(ハイデルベルグ泊)

 

5月7日(日)

ハイデルベルグ発

ローテンベルグ着

ローテンベルグ発

ミューヘン着

午前:古城街道を南下、城壁の古都ローデンベルグへ

着後、ローテンベルグ旧市街を散策

その後、ロマンチック街道を、一路ミューヘンへ

(ミューヘン泊)

 

5月8日(月)

ミューヘン

午前:ミューヘン市内見学

マリエン広場、新市庁舎、ニンフェンブルグ城

午後:ナチスのダッハウ強制収容所跡を見学

ミューヘン帰着後、自由行動

夜:ビアホール「ホーフブロイハウス」でうたごえ交流

(ミューヘン泊)

 

5月9日(火)

ミューヘン発

パリ着

午前:空路、フランスの首都パリへ

午後:パリ市内見学

コンコルド広場、シャイヨー宮、ノートルダム寺院、オペラ座

夜:シャンソニエ「ラパン・アジル」でシャンソンの夕べ

(パリ泊)

 

5月10日(水) パリ

終日自由行動

ルーブル博物館やオルセー美術館などの美術館巡り

ヴェルサイユ宮殿見学

シャンゼリゼ通りの散策やショッピング

(パリ泊)

 

5月11日(木) パリ発

午前:空路、直行又は乗り継ぎ便で帰国の途へ

(機中泊)

 

5月12日(金) 成田空港着 午前:成田空港到着後、解散

 

宿泊ホテル(いずれも★★★★クラス):ハイデルベルグ=NHハイデルベルグ ミューヘン=ホテル・インターシティ パリ=キャスティグリヨン  利用航空会社:ルフトハンザドイツ航空・エールフランス航空



 

●大野幸則たび日記


 ともしびが世界歌の旅を再開したのが五年前。バルト諸国(ラトビア、リトアニア、)ではまさに国民的な合唱祭があることを伝え聞き、清水、寺谷、田口がお客様と共に出かけ、「百万本のバラ」の作曲者パウルス氏と面会がかない、パウルスさんの伴奏で清水が「百万本のバラ」を歌うといった奇跡に始まり、ハンガリー・フィンランド(小川、斉藤)、イタリア(中西、岡田)、北京(小川、小松原)、バルト?(清水、小松原)シベリヤ(寺谷、岡田)、ベトナム(行貝、金指)とともしび「歌の旅」が続いています。それぞれがとても興味深い旅となりました。

今回はともしび歌集「歌の世界533」で最も多くの歌が載せられているドイツとフランスを訪ねることになりました。ともしびでは「歌」を訪ねながら、うたごえ喫茶らしさの一つのテーマ「歌いあう文化」の系譜を訪ねることもその目的の一つでした。
そもそも、うたごえ喫茶の原型は偶然でもありましたが、食堂で食事をしていたお客様がかかっていたレコードに合わせて歌い始めたことに、経営を任されていた柴田さんが着目して、歌声喫茶が生まれたわけですが、ロシアでは古くから合唱、一人が歌い始めるとそれに和すかのようにコーラスで重ねていく文化が歴史的にありました。
映画の「シベリア物語」や「人間の条件」などの歌のシーンはとてもすばらしいものでした。
かつてともしび友の会でロシアの旅をした頃に、もうロシアでは日常生活ではほとんどロシア民謡が歌われなくなっていると聞いてもおりました。子どものための演劇関係の仕事で、ドン河に面したロストフ市を訪ねたことがありました。古いロシア民謡を演劇の俳優さんたちとドン河で一緒に朗々と歌い、やはりロシアにも脈々と受け継がれていることに、当たり前ではありますが感動したことが思い出されます。
床屋さんでも町中でオペラのアリアを高らかに歌うイタリアとイタリア在住の方に伺ったことがありました。街角で、遺跡で、カンツォーネや歌曲のアリアを歌いあったイタリアの旅、南ベトナム解放30周年、うたの旅では「南ベトナム行進曲」「ホーおじさんの歌」(大勝利の日にホーおじさんがいるようだ)をうたい、子ども達と「パネルシアターコンサート」で交流しながらの旅。
中国でもうたごえ喫茶を開きたいというGさんのコーディネートで紫禁城の奥の景山公園での野外うたごえ喫茶の実現。シベリアでは歌手のジバエドフさんとコンサートとうたごえの交流が進みました。
そして今回のドイツ、フランスの旅はビアホールやシャンソニエでのうたごえ交流が楽しみの一つでした。

 

5月5日(金) 日本晴れ ドイツ快晴(汗ばむほど)
成田空港第2ターミナル3階D38に集合。山崎さん空港近くのホテルに前泊、ホテルが荷物荷物を運んでくれると思い手ぶらで集合。出発前のトラブル、ジャブ。土産物お届け業者が用意してくれたヴィプVIPルームで簡単に名前を紹介しあい「のばら」をウェルナーをゲーテの詩で歌い、いざ搭乗。ルフトハンザはほぼ満席。私たちツアーは40番台の飛行機後部座席、少し空きがあり離陸直前に数組が窓際に移動、大野も左側へ早速移動、日本列島を東北地方の太平洋岸に沿って北上、雲の切れ目から雪の残る青森、北海道を垣間見ながら北上、間宮海峡の北側からロシア・シベリヤへ侵入、アナウンスではシベリアの北辺を通過し、サンクトペテルブルク、フィンランドを経由しバルチック海よりドイツに侵入との予定。
「中国から進入してヒマラヤを通過してヨーロッパに入れば近いのにね」などと勝手なことを言い合いながら窓の下の景色に見入っていました。シベリヤといっても見える景色には変化があり、日本海側は山波に雪が残っている風景、更に北上すると一面の雪原に凍結した蛇行する河、凍結した多くの湖というか沼が一面に散らばり、やがてなだらかな起伏を風紋が覆い、やがて若い大地を河が渓谷を削り取った風景に変わり、北海に出たのでしょうか氷で敷き詰められた海岸を通過、シベリアに入って、7時間、動く物とて見えず、日本に近いシベリヤ側に地図に直線を引いたような道路が見られただけ、まさに人跡未踏の風景が織りなす風景に飽きることなく見入っていました。「あのきれいな一面の雪景色に足跡を付けたら楽しそうね」の声、もし足跡を残すことになった時の惨劇が目に見えるようで…。不時着した時の心構えなどと話が及び「まさにシベリヤ物語ね」人家が見えたのは海岸線が複雑に変化したフィンランドに入った時からでした。ドイツまでの11時間半の空の旅、窓側にへばりついた私の体には燦々と降り注ぐ初夏の日差し、「もうすぐ日も暮れるし」と温室状態を我慢しながら眺めていました。ドイツに侵入して南下するまで変わりませんでした。太陽と一緒に飛んでいたというか、太陽が忘れがたくおいかけ続けていたというのか、陽が落ちることなぞないことにやっと気がついた次第。「いつも太陽を追い続けた我が人生!などと強がって、のどの渇きをいやすため発砲ワインを注文し続ける私でした。
上空から見るドイツの地図は薄い緑と赤茶けた休耕地少し深い緑は森のよう赤い屋根の集落が固まってあり、その一つ一つを道路がきちっとつないでいる。成田から上空から見るゴルフ場だらけの我が国土を思い出しながらゴルフ場の全くない耕地と集落の連続に彼我の違いを思わずにいられませんでした。やっと見つけた一つのゴルフ場に安堵しながらフランクフルトの上空から着陸態勢に、思っていたより小さな都会でしたドイツとしては珍しい高層ビルが陽に輝いていました。後で聞く添乗員の高野さんに寄ればニューヨークのマンハッタンになぞらえてフランクフルトを流れるマイン河をもじって「マインハッタン」と呼ぶのだそうです。
バスで小一時間、畑で農作業は手仕事10人から20人ごとがあちらこちらの畑で固まっている。集落ごとの共同作業なのかしらと。ゲーテの生まれ故郷であるフランクフルトに敬意を表して、覚えたばかりの「のばら」を斉藤のアコで歌う。ローレライで名高いラインの渓谷は車で30分ほどのところとのことでローレライの岩の方角に向かい、ハイネ詩の「ローレライ」も歌う。現地時間4時は日本時間の11時ともしび閉店の時間。バスでのうたごえも終了することに。ハイデルベルグ着、新市街というが古い町並みにマロニエの白や赤の花、栃木県足利の秋葉さんが栃木の県木「栃の木のことよ」という解説に唖然、「じゃ栃餅が作れるの」ととんちんかんな会話。ひときわ目を引いたのが藤の花、古い建物の玄関、入り口の壁面を覆うように3階付近までアーチ状に飾って何ともいえない風情、藤の花は日本情緒と思っていた私にはちょっと衝撃でした。時差ぼけを解消するために今日は現地時間で生活すべしとのお達しを受けテラスを備えたカフェで早速ビールを2種類。長い一日を現地時間10時で終える。
みなさん独自の歌集を作ってきてくださり、「さくら」のご自身のアレンジ譜をコピーしてくださった中島祥子さん、ドイツの歌特集の古澤さんや「上を向いて歩こう」がどこの国でも知っている日本の曲と教えてくださる玉城さん

 

5月6日(土) 快晴 まさに薫風
6時にモーニングコール。早速日記録の続きを書く。7時30分に食事におりていくと平松さん等が「心配してたのよ」「寝坊したんじゃないかって」みなさん7時頃から食べて食べ終わっているよう。
朝食のバイキングの種類の多いこと、それもおいしいのです。あれもこれも食べたいなソーセージだけでも10種類近く、パンとケーキはそれ以上、卵料理も4種類、果物、ジュース、ヨーグルト等々等々。「あれ?サラダがないの」とそれでも気がつきました。後で通訳兼ガイドのクノール弥生さんの話ではヨーロッパでは朝食にサラダを食べないとのこと。よくわかりませんでしたが、ま、そんなもんか。もう一つ高級ホテルにもかかわらず若いお客さんばかりなのです。これは予想通りで研究会議などで来る研究者が多いからで他のドイツの年はどこも日本と同じだとのこと。食休みをして午前のスケジュールの開始。早速ハイデルベルグの旧市街とハイデルベルグ場へ出発。ドイツは環境についての施策が大変進んでいる国ですが、このハイデルベルグはその中でも先進的なモデル地域となっているそうです。街は市電やバスの公共交通機関がひっきりなしに運行し、自転車、徒歩の方がとても多い、中にはローラースケートも。自転車市電とバスを乗り継いでケーブルカーの入り口へ直行。40%の急勾配をトンネルであがる。まず、ゲーテの16才の恋人の日記の碑、当時66才だったゲーテを同年輩の添乗員の高野さんがしきりに引き比べてかたる姿が思い出されました。碑のそばの菩提樹のもと「菩提樹」を歌う観光客が寄って、街が見下ろせる崖やモニュメントの大きな壁の前など。「別れ」、「のばら」、「故郷を花るる歌」など知っている限りのドイツの歌を歌う。皆取り巻いて写真を撮ったりビデオを撮ったり一緒に体を動かして口ずさんだり、私たち以上にガイドのクノールさんが乗って、どんどんこんどはここ、次はあそことまるでディレクターのよう。老齢のシスターが連れの子どもと一緒に笑みを浮かべて口ずさむ姿が印象的でした。
ハイデルベルグの古城は一部が30年戦争で壊されたまま、この状態のままを修復して今日に残している。決してもとあった様に改修することはしないのです。ドイツロマン派の人たちは荒れ果てた城を見つめることでドイツの国、民族を憂え、これからのドイツの有り様を熱く語りあった。その先人の思いを今に受け継ぐ心構えなのだそうです。
第二次世界大戦に勝利した連合軍は日本占領の象徴としての皇居を睨む堀端の第一生命ビルを当てた同様の意味を持ってドイツの占領の象徴として占領軍の本拠をこの小さな学生街ハイデルベルクに置いたそうです。ハイデルベルク大学はドイツ最古(1386年)の大学でこれまで八人のノーベル賞受賞者を出し、当時はナチスの牙城でもあり、ドイツ精神を象徴する街でもあったということのようです。
旧市街地を散策しつつ、メインストリートの両側からテラスが張り出されたテーブルでビールを片手にくつろぐ人々の間を、「乾杯の歌」「トゥリンク・トゥリンク」「ビヤ樽ポルカ」を歌いながら市庁舎前の広場、歌を歌う私たちの周りをたくさんの人が囲み「別れ」「ちょうちょ」など勢いよく一緒に歌ったりカメラの放列、ビデオカメラのマニアでしょうか様々な角度からとりまくっていました。昼は特産の白アスパラカスの料理とビール。
食後は免税店を紹介してもらってショッピング、なんと日本人の経営する日本人スタッフばかりがいる店でした。その後は自由行動。私はYさんご夫妻、Hさんと対岸の散歩道から旧市街、ハイデルブルク城を遠望しての散策。これまでバラバラに見てきた城や街をネッカー河沿いに発展した街として、貨物輸送等の船、遊覧船、ボートの行き交う水量豊かな流れのネッカー河、石橋のカールデオドール橋、川沿いに広がる旧市街の町並み、河と街を睥睨するかのように山の中腹にハイデルベルク城、青い空。
夜は楽しみにしていた学生酒場、歴史を思わせるそう広くもない店内は七時にはもういっぱい。早速、「乾杯の歌」「トゥリンク・トゥリンク」と歌い始めたが周りの反応が今ひとつ、というか今二つ?通訳のクノール弥生さんが事情探索、ノルウェー、トルコ、アメリカ、そして子どもを含めた家族連れ。ほとんどがアメリカからの観光客。そこで方針変更、フォスターの「おおスザンナ」にしたところ大当たり、「草競馬」「峠の我が家」「雪山讃歌」(クレメンタイン)、子どもたちも歌い始めたので「線路の仕事」「大きな古時計」「エーデルワイス」「ドレミの歌」そして「カントゥリーロード」「500マイル」と大いに盛り上がって?ちょっとしたおみやげをプレゼント、折り鶴、絵、民芸品のかみつくと離れないヘビに大喜び、これはNさんの手作り。
帰りがけに隣の居酒屋で若い女の人たちがピアノに合わせて歌っていた。我が女性たちが窓から見ていると、若い女性たちがどっと出てきて赤いバラの花束を私の前に差し出し「フォーユーロ」と聞こえた。飛び出る言葉と雰囲気で、私の理解はカウボーイハットをかぶったこのバラを差し出した女性は最近結婚し、友達がお祝いしていた。ジョークで4ユーロで幸せを分けてあげるという風に。4ユーロを渡すと、バラを二輪くれて、なんとキッスまで。「百万本のバラ」を歌い、そして「別れ」を口ずさみ、お互いに歌いながらのお別れ。


5月7日(日)快晴
古城街道からロマンティック街道を経てミュンヘンへの旅。ネッカーシュタイナーの小さな城、ウェーバー「魔弾の射手」ゆかりの城ツヴィンゲンベルク城ゲーテの戯曲「ゲッツ・フォン・ベルリンゲン」の主人公で実在の中世騎士ゲッツの居城を緑の田園の中に見る。なだらかな緑と黄色と茶のコントラストに時折リンゴの白い花いつまでもいつまでもネッカー河に沿って続いていく。なぜ?護岸がコンクリートでない、電信柱がない、広告がない、自動販売機がない…。ないことの美しさ。たたずむ家々は伝統的な赤い屋根に白や茶や薄い黄色の土壁三階建てで屋根裏部屋。庭にはマロニエの白や赤の花、ライラックの青、時に八重の桜のピンクそして、リンゴ、なし、の白い花が彩る。一番前の席でビデオとカメラのシャッターチャンスをねらっていた松浦さん「すべてが絵になるアングル」とシャッターチャンスならぬ休むタイミングがなくとりっぱなし。ブドウ棚が現れると昼食でのワインを飲む私が心に浮かぶ。中世の宝石箱といわれるローテンブルクで昼食、高級なフランクワインはあきらめて白のハウスワインを。
小麦酵母の入ったビールがこくがありツアーの中で評判となった。黒ビールがまたうまいという、飲みたいけどやめとこ。市役所の時計塔、ちょうどの時刻に仕掛け人業が動くというので見上げていると占領者に4リットル近いワインを飲み干せと迫られ見事のみ干した市長の史話が、二体の人形によって表されていました。
ロマンチック街道に入りディンケルスビュール、ネルトリンゲンの街を見ながら南下。ロマンチックは現代的なロマンティックと文字通りローマと結ぶ道であったことからこの名が。ネルトリンゲンの街ではお祭りだったのでしょうか手作りの商品の露店が並んでいました。奥の一角では子どもたちの遊び場コーナーがあり、竹馬ならぬ木馬(きうま)とでも呼ぶのでしょうか。木製の竹馬や、2×10?ほどの木片がどっさりの積み木というかブロック、1m×3mほどのパネルにあいた穴にひもでつるした30?×30?のパネルをバランスをとりながらおろしていく物、ゴールキーパーと選手を木製のパネルの上にしたからの磁石で動かしつつ相手のゴールに球を打ち入れるゲーム等々実にユニークな木製の遊具、ゲーム器が並び子どもたちが次々と遊んでいました。
本日の最終訪問地はダッハウ強制収容所跡。ヒットラーが政権をとった(ドイツ国首相に任命された)数週間後に作られた政治犯用の強制収容所として作られた。この収容所は後に建てられた全収容所のモデルとなり、ナチ親衛隊(SS)の統制下にあるナチ親衛隊員のための「残虐行為の養成・訓練所」となった。12年の間に20万人以上の政治犯がヨーロッパ各地から拘留され、4万3千人以上が殺されました。清潔と  をもって働けば自由を得られるとその鉄の門扉に書かれています。男性の収容所でありましたが一棟女性囚人棟があり強制売春をさせていました。収容所の入り口に「Arbeit mcht Frei 」(労働が自由を作る 苦ことが自由をもたらす)と書かれてある。この言葉はアウシュビッツの収容所にも書かれていた。
ミュンヘン市に到着。ミュンヘン中央駅に併設されている古いホテル、インターシティホテルに到着。日本にメールを送ろうとランケーブルを用意してきたがNHホテルは無線使用で対応できず、このホテルでコネクターを見つけ接続するもID登録されていないため断念、隣にあったインターネットカフェに行くがここも「ワイヤレス!」ということで断念


5月8日(月)快晴
ヨーロッパは戦勝記念日、ドイツは

 朝7時、東京の事務所に仕方なく電話。日本時間は午後2時こちらの旅が良好なことを話し、連絡事項を受ける。自然楽校の経験をまとめて吉田、田口に申し送る手はずを付ける。午前中は市内観光、第二次世界大戦で市内中心部の建物の80パーセントが失われるがその後、数百年続いた街を復興(復元)。今ではすっかり昔の街並みに

ホフブロイハウス(王宮醸造所)の名の通りかつては王のビール工場でした1900年頃から一般にも開放され現在に至っている。本当に広い、数千席のキャパというのもわかる。ウェイトレスも担当区域があり注文した飲み物十数個をまさに一抱えにして運んできたときは皆思わず拍手年の頃は30才頃のちょっと上背のあるがすらっとしたウェイトレスが運んできた。
バンドはキーボード、トランペット、チューバ、ドラム(パーカッション)ヴォーカルでバイエルン地方の音楽を演奏するスタイル。一曲やってちょっとお休みを6,7曲繰り返してお休み、乾杯の音楽(短い乾杯をするだけの音楽)があり演奏者は皆ジョッキをもって演奏、ペットの人はジョッキとペットを代わる代わるくわえての演奏。30分ほどの休憩時間に客席で演奏井上さんが踊り出し、古澤さんが同席したドイツの3人の青年がのってきて一緒に歌う。みなさん持参のおみやげ、浮世絵、万華鏡、通訳も「乾杯の歌」はアメリカの歌。ヘビ、小樽の絵はがきなどを近所のお客さんやウェイトレスに配り和気藹々、折り鶴を折ってプレゼント。周りに人が集まりカメラ撮影、井上さんと近所のおじいさんが手を取って踊り出し、拍手。名物の甘いビールにちょっと辟易するもめげずに飲み干す。最後はバンドと一緒に「上を向いて歩こう」通訳の日本人だと行ってバンドが何を演奏できるかと聴いたところ七曲ほど漢字で書かれたリストを見ると中国語、青年行進曲とか国際行進曲などと書かれていた。国際学生連盟の歌?
九時過ぎに引き上げ明日に備える。5時起床、明日はミュンヘンからパリへ。
ミュンヘンはナチ棟の発祥の地、ホイブロイハウスはたびたびヒットラーの演説があった。
一方映画にもなった「白バラ運動」もここミュンヘン大学の学生から起こった。ビラをまいたと言うことで逮捕され即裁判その日の内に処刑されたそうです。

 

5月9日(火)雨 少し肌寒い
ドイツに来て初めての雨、五時起床、バッゲージをロビーに置いて6時朝食、6時半出発。ミュンヘンの古い街並み、4つのビール醸造工場に別れ、BMW、ベンツの本社ショールーム(すべての車種が揃えてありその場で販売することができる)を過ぎ、ミュンヘン空港へ空港名はヨハンシュトラウスの名が冠されているとのことミュンヘンのある州はバイエルン、シュトラウスはここの出身、16年間ミュンヘンにいたことにちなんだものだそうです。
シャルルドゴール空降着、古い空港、新しい大きな第2があるとのこと。歩く歩道が中庭の空間をクロスしながらあがっていき上りの歩く歩道はまるでマッサージ機のように大きく振動。フランスサッカー場を右に見て環状線から市内へ秋山さんが「あの運河?」とセーヌ川かと確認する質問だったようですが、目の前には砂利運搬船のような作業船が数隻行き交っていたので「運河でしょう」といったところガイドさんが「目の前がセーヌ川」
あこがれのパリがまず私の中でがらがらと音を立てて壊れていきました。ルーブル美術館の壮大なこと、エッフェル塔とパリの街が織りなす無限の空間、凱旋門、オペラ座とバスがまず市内を一巡り、ノートルダム寺院が聖マリアをまつった寺院で各地にありここはパリノートルダムだと言うこと。私の記憶の中には「ノートルダムのせむし男」しかなく武道館の二倍はあろうかという教会の荘厳さ
通訳兼ガイドの林さんは絵を志しパリに30年
一度宿に帰って夕方から明日の自由時間の行動の相談。
モンマルトルの丘でうたごえを夜予定が時折の雨で取りやめる。急坂に一軒たたずんでいるかのような古い民家風の「ラパンアジル」には九時頃月、前座で「うたごえをやるという」プログラムが意志疎通の不備かピアノ演奏が始まってしまいできず。ピアノ演奏者、伴奏者のテクニックと歌い手、観客に寄り添うがすばらしく参加者から絶賛。シャンソンも歌い手メンバー八人?が20坪ほどの客席の真ん中にあるテーブル寄り集まってすわり、中の一人が歌い出しリフレーンをみんなで歌い始める。もしくは合いの手のようなフレーズを歌う。次々にソロが替わって歌い出すという構成、歌の内容はどうやら自分の様々な体験に基づいた出来事を仲間に話しながら続けて30分ほど。一緒に客席も口ずさむ、メドレーでシャンソンが流され知っている歌を皆口ずさむ。これはシャンソンのイメージを一新するものでした。
11時間近、ステージの途中で残念でしたがホテルに戻る。

 

5月10日(水)雨
自由行動の日。午前中ヴェルサイユ宮殿みなさん8時に集合し出発。地下鉄から国鉄に乗り換え30分ほど。広軌の鉄道ですべて二階建て巨大な固まりのような列車がホームに入ってくる。中はあちこちいたずら書き、線路側の壁は落書きだらけ。日本でも問題になっているあの落書き、あの落書きにスタイルがあるとすればドイツもフランスも同じものがぎっしりと放置されていた。
ヴェルサイユ宮殿を終えて美術館派と散策派、個人的な訪問をする二組に分かれ午後の一時を過ごす。
オルセ美術館はぎっしりの行列でした。そういえば「30ユーローのパスはどうなったのか」の声が起こり、「損をするのはしょうがない、時間がもったいないので買えるなら買いたい」と高野さんに買ってきてもらい、並ばずに入場。印象派を中心とした見事な収集に感動。